

■ご本家の仏たち
釈迦牟尼仏 しゃかむにぶつ
本籍 「法華経」「大般涅槃経」その他 現住所 娑婆世界 続柄 娑婆世界の教主
愛称 お釈迦様 別称 釈尊 旧姓 ゴータマ・シッダルタ 専門 総元締め
釈迦牟尼仏ってどんな人?
私たちが普段「お釈迦さま」と呼んでいるのは、この「釈迦牟尼」を略したものです。これは<シャカ族の聖者>という意味のインドの言語(梵語)「シャーキャームニ」の発音を漢字にあてはめたもので、本当のお名前ではありません。また「○○仏(ぶつ)」というときの"仏”も仏陀の略で、梵語のブッダ、<真理にめざめた人>という意味の言葉です。
「お釈迦様」とよばれているゴータマ・シッダルタは紀元前463年、シャカ続の小王国カピラバッツの施政官の子として生まれました。現在のネパール国のチロリコート付近で、千葉県くらいの面積の国だったといわれています。
父シュッドーダナは王と呼ばれていましたが、種族の間で選挙された執政官でした。母マーヤー夫人がお産のため実家にゆく途中、ルンビニの花園で産気づかれました。このとき天から甘露の雨が降り、産湯のかわりをしたという故事から、4月8日のお釈迦様の誕生をお祝いする花まつりのときに、花でかざった花御堂をつくって誕生仏に甘茶をそそぐ行事をするのです。
母マーヤー夫人は7日目に亡くなり、それからはおばのマハープラジャパティー夫人に育てられました。このことは、シッダルタが成長するにつれて人生の深い思索へと向かう大きな要因となっています。
シッダルタは従妹ヤショーダラーと結婚し、一子ラーフラをもうけたのですが、29歳のとき、人生の真実を求めて出家し、山の中に入りました。
どんな修行をしたの?
当時の名のある賢者たちについて修行したのですが、それはそれまでに誰もできなかった激しい難行苦行でした。麻の実一粒で生命をつないだり、口や鼻からの息をとめて耳で呼吸したりしました。そのため身体の一部が異臭を放ち、毛根が束になって抜け落ちるほどだったといいます。
6年間苦行をしたのですが、「目的を得るための瞑想や、自分の欲望をかなえるための苦行は無意味である」とさとってこの苦行をやめました。
ネーランジャ河で沐浴してそれまでの“垢”をおとし、村娘乳粥の供養をうけて体力を回復させ、ピッパラ(菩提)樹の下に乾草をひいて瞑想に入られました。そして7日目の12月8日の未明、悟りをひらかれたのです。
すべてはうつりゆくものである(諸行無常)。固定的な実体があるのではなく、すべて因(原因)と縁(条件)によってあるのである(諸法無我)ということをさとられたのです。すべてを見据える心の眼をひらかれたといってもよいでしょう。
「釈迦牟尼仏」となられたお釈迦様は、苦行時代に行を共にした5人の修行者たちにまず教えを説かれて(初転法輪)から、以後45年間、各地方をめぐって説法され、多くの弟子や信者を教化されました。
お釈迦様は長生きだった!
80歳になられたお釈迦様は病気がちで、故郷に向かう途中発病され、ついにクシナーラ城外の沙羅の樹林の下で亡くなられました。西暦紀元前383年2月15日でした。このとき頭を北に向け、右脇を下にして足を重ねて寝ておられたことから、今日でもこれにしたがって死者を「北枕」にするのです。
お釈迦様の死を「涅槃」といいます。“吹き消す”という意味の梵語「ニルバーナ」の音写ですが、わずらい悩むその源となる煩悩の火を吹き消して、迷いのない安らかな境地をさす言葉です。
お釈迦様の遺骸は火葬にされ、その遺骨をめぐって国々の間で争いが起こりそうになったのですが、結局8カ国の国王に分配されました。お釈迦様の遺骨はとくに「舎利」といって尊ぶのですが、その遺骨の上に塔が建てられて、信者たちの崇拝の的になってゆきました。この塔の形式が日本に伝えられて三重塔、五重塔となり、またさらには今日わたしたちが死者の供養のために立てる塔婆となって伝えられています。
現代にまで教えが残ったのはなぜ?
お弟子たちはお釈迦様の遺言にしたがって、お釈迦様の教えを伝えていくことに専念したのですが、その教えの誤りないことをただすために、お弟子のアーナンダ(阿難)が中心となって経(教え)をウパーリ(優波離)が中心となって律(規則)を、それぞれの記憶をたどって誦え、それを聞いていた500人のお弟子たちが校訂しながら、標準となる経と律を定めました。これを結集(けつじゅう)といいますが、その後いくたびか結集がおこなわれ、今日の仏教経典の基がつくられていきました。
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